こんにちは、マサスケブログです。
芸能界で活躍しているタレントさんや芸能人のみなさんは華やかな生活を送っているイメージを持っていますよね。
芸能界で有名になれば、セレブのような生活を送っていると思いますが、今とは到底真逆の壮絶な過去、生いたちだった芸能人もいます。
今回はそんな苦労を乗り越えた関ジャニ∞の横山裕さんにスポットを当てて、お伝えしたいと思います。
両親が離婚
2019年12月28日にNHK「令和家族」で、ジャニーズの横山裕さんは壮絶な生い立ちを語りました。
それはー、
3歳の時に両親が離婚しました。
一人っ子だった横山さんは、親権は母が持つことになったそうです。
シングルマザーとなった母は、生活が大変だったのか、横山さんを祖父母に預けることになってしまいます。
その2年後、横山さんが5歳の時、母は再婚することになります。
母が再婚、義父の父
横山さんは義父から、「お父さんとう呼べ」と頭をど突かれたそうですが、5歳の横山さんはどうしても呼べなかったそうです。
すると1年後に、義父と母親に子供ができました。
横山さんに6歳年下の弟、そしてその2年後には、8歳年下の弟ができたそうです。
そんな中、中学2年の時に育ててくれた祖父が心臓の病気で他界してしまいます。
横山さんは、義父と母の元に戻り、団地で、弟も含む、家族5人の生活が始まります。
だんだんと崩れていく家庭
再婚当初は、母親も幸せそうに見えていたそうですが、そんな家庭に徐々に変化していくことになります。
この頃になると、義父の怒号の声が聞こえたり、母の泣く姿を見たり、また義父は横山さんに対しても暴力を行っており、棒で殴られたりしたそうです。
中学を卒業すると、義父は横山さんの高校の進学を許さず、「働いて稼げ」と言い放ってたとのことです。
そのため進学することができず、横山さんは、中学卒業して建設会社に就職しています。
ジャニー喜多川氏との出会い
中学を卒業する少し前になりますが、1996年に母親は、同級生が、ジャニーズに入所した話を聞き、「うちの子も入れるんとちゃうか?」と、ジャニーズに履歴書を送付します。
オーディションに行った横山さんですが、残念ながら落選してしまいます。
ところが、帰りにトイレに立ち寄ったところ偶然、ジャニーズ喜多川社長に会い、「You、舞台観に来る?」と誘われ奇跡の合格することになったそうです。
やっぱり喜多川さんの先見の明はすごいですね。
ジャニーズと建設会社との両立の日々
横山さんは、入所してからデビューして間も無くも、しばらく、建設会社と芸能界と両立して働いていました。
ある日、建設の仕事が終わり、仕事着のニッカポッカのまま局に入ろうとしたところスタッフに注意を受けたそうです。
「さすがにそれは、マズイよ。ジャニーズは夢を売る商売だから、これまでのセオリーで、それはやめておこう」となだめられ、他のジャニーズは制服姿で入局するのに対し、ニッカポッカ姿だった横山裕さんは、仕方なく普通着に着替え、さらに衣装やレッスン着に着替え、他の人より着替えが多かったそうです。
アイドルとして収入が安定した頃まで建設会社で働いていた横山さん。
それまでの働きぶりは非常に評価されていて、建設会社を辞めるときには社長に、「お前が芸能界であかんかったらいつでも戻って来い」と言ってくれたそうです。
義父と母が離婚、母が病気に
そんな日々を送っていた横山裕さんでしたが、一方で母親は義父との離婚を決意したそうです。
シングルマザーとして仕事を掛け持ちして働いていた母親でしたが、そんな苦労があったのか、癌を患ってしまい、弟は施設で育つことになってしまいました。
横山さんは、まだ駆け出しのアイドルで母の治療費、二人の弟の養育費や生活費を工面していたようですが、そのときの横山裕さんの気持ち思うと、大変苦労していたということがわかりますね。
突然の母との別れ
2010年、横山さんが29歳の時、母親がスーパーの買い物に行った際、突然倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったそうです。
原因は虚血性心疾患だったそうです。
亡くなった当日、横山さんは関ジャニ∞のツアーの真っ最中でした。
ステージ直前に母の死を知らされ、スタッフからコンサート中止の提案もありましたが、「仕事に穴を開けない、母も同じ意見なはず」とコンサートを続行を決めました。
コンサート中は、ファンもその訃報が伝わり、涙を流すファンもいたといいます。
そして、最後に横山さんは、母へ思いを込めて「オニギシ」を歌いました。この曲は、実は育ててくれた祖父母に捧げる横山さんが作詞した曲でしたが、
「お母ちゃん、僕は何してあげられた?優しかった?もっと一緒に笑いたかったなぁ。でももうそれも遅いんやな」と母への思いを込めて歌うと、涙を流して途中から歌えなくなるほどになってしまいます 。
横山さんは、「人生で一番泣いた。後にも先にもあんな辛いことはない。」と語っており、その辛さやショックは、いかほどだったかと思います。
度重なる不幸
しかし、あまりの不幸にもその後、今度はその弟さんが、記憶喪失になってしまいます。
6歳年下の弟さんは、母が亡くなった直後は気丈に振舞っていたそうですが、ある日突然、倒れてしまいます。
そのことを聞き、横山さんが、弟さんに連絡するとー、
弟さんは、「みんな変なこと言うねん。オカンが死んだとか言うねん。」
弟さんは、母の死のショックが大きく、精神的に病んで母の死と言う記憶を失ってしまったそうです。
このことで、横山さんは、家族と過ごす時間を大切にしようと、弟さんと家族旅行し、楽しい時間を増やすことに努め、2年後。弟さんの記憶も戻って来たそうです。
母親代わりに 弟にささげる時間
横山さんは、母親代わりとなり、弟さんたちの大学や専門学校の学費も支払っていたそうで、弟さんたちも無事に大学を卒業しています。
一番下の8歳年下の、弟さんは、京都産業大学を卒業し法政大学会計大学院で学び税理士になりました。
プライベートはいつも弟たちと一緒で、メンバーからも「友達いないんちやう?」と突っ込まれるほど、かけがえのない家族を大切にしてきた横山さん。
そんな弟さん(次男)の結婚式では、大号泣。父親母親の気持ちだったのでしょうね。
いま、義父に思うこと
さて、そんな横山さんは暴力を振るってきた義父に対しても気持ちを整理してきたようです。
「義父を悪くは言いたくない。しかしまだ許せない部分があり何年も会っておらずずっと気になっている。」
「僕に謝ったり、ありがとう。ということで、おとんは気持ちが楽になるのなら謝らせてあげた方がいいのかなぁ」
と語っています。
まとめ
いかがだったでしょうか。
あの国民的大スターとも言える横山裕さんにそんな過去があるなんて思いもよらないですよね。
そしてあのジャニー喜多川氏との出会いが、まさに横山裕さんの人生を変えたと言っても過言ではありません。
でも、そんな過去を持ちながらも大スターにまでたどり着けたのは、やはり血も滲むほどの努力を続けてきた横山裕さんだからでしょうね。
以上、マサスケブログでした。最後までお読みいただきありがとうございました。
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